求道者たち vol.24
長板中形・藍形染 2014/9/1

江戸時代から続く伝統の染め技法を
三世代に亘り色濃く受け継いでいく

都心から1時間少々。
山里の工房を訪ねる

藍形染作家 松原伸生(まつばらのぶお)/1965年東京都江戸川生まれ。都立工芸高等学校卒業後、父、松原利男に師事。1987年「伝統工芸新作展」「日本伝統工芸展」初入選。1988年「日本伝統工芸染織展」初入選。1991年日本工芸会正会員に認定。2009年「日本伝統工芸展」新人賞受賞など受賞歴多数

 緑濃き山里に、夏の盛りを知らせる蝉時雨。東京都内から車を走らせて、1時間少々でたどり着いた千葉県君津市の風景は、まさに日本の山里の原風景。訪ねたのは、「長板中形・藍形染(ながいたちゅうがた・あいかたぞめ)」を手がける松原伸生さんの工房兼住居です。
長板中形とは、江戸時代に生まれた染色技法の一つで、主に浴衣を染めたことから、長板中形と言えば浴衣のことを指します。この夏も浴衣姿の人々を街で見かけましたが、その多くは青、赤、黄などさまざまな色をつかった華やかなデザインでした。一方この長板中形は白生地に藍を染めるため、青と白の対比が「涼」を呼ぶ、粋ですっきりとしたデザインが持ち味。夕涼みの風に裾が返り裏地が見えたとしても、そこには表地と同じ模様がキリリと染め抜かれています。当たり前、と思われるかもしれませんが、実はここに職人ワザの真骨頂があるのです。
祖父の人間国宝・松原定吉、松原四兄弟と呼ばれた父(松原利男)と叔父、そしてご自身の三世代でこの「長板中形・藍形染」の技をつないできた松原伸生さんに、これまでのこと、そしてこれからのことをうかがいました。

藍と白のみの潔いデザイン。通が好むというのも納得
自然豊かな山里に佇む工房兼住居。江戸川にあった工房から30年前に、父親と高校を卒業したての松原さんはここへ越してきた。写真右手が工房

工房の前には、鮎も泳ぐ清流がある

祖父・定吉翁が始めた
型付け、染めの一貫制作

 長板中形の長板とは、約6.5メートルの長い一枚板のことを指します。着物の一反は約13メートル。この長板に白生地を張り付け、模様が刻まれた伊勢型紙をつかって表裏に防染糊を置いていき天日で乾燥させた後、藍甕(あいがめ)に浸して染める、というのが長板中形の大まかな工程です。また長板中形の中形は、伊勢型紙に刻んだ模様が小紋よりも大きく中くらいだったことを指しています。長板中形が起こった江戸中期は、この工程を型付師と染師である紺屋(こうや)が分業で行っていました。これを一貫して行い始めたのが、松原さんの祖父・松原定吉翁(1893〜1955)です。
「富山から出てきた爺さんが丁稚奉公に入ったのは、亀戸にあった型付け屋。そこでは染めはやっていなかったそうです。その型付け屋が関東大震災で被災したと同時に独立させられ、江戸川に自分の仕事場を構える段階で藍甕を持とうと決意したようです」。分業はそれぞれの工程の技を極め、また大量生産をするには効果的な方法。その一方で、他の工程が見えず生産過程で不具合が生じたときの責任の所在が曖昧になりやすいという欠点もあります。「染めが自分の手から離れて行くと (失敗した時に)『糊が悪い』といわれちゃうと、もう分からない。もしかしたら染めでミスがあったのかもしれないし。だから染め上がりまで自分の目で見たいというのがあったんでしょうね」。しかし当時は、型付師が藍甕を持つのは異端。批判もあるなか、一徹の志で定吉翁は技を極め、1955(昭和30)年に初代の人間国宝に認定されます。
「爺さんは不運な人で、認定を受けたその年に亡くなってしまった。親父たち兄弟がそれを継いでいくわけですが、なんとか形にしていかなきゃという責任感もあったでしょうし、大変だったと思います」。

工房の天井に仕舞われている長板。一枚が約6.5メートルの長さがある
長板に白生地を張りつけ、伊勢型紙を使って防染糊を置いていく
防染糊を置く「糊置き」という作業。長板中形では生地の両面に「糊置き」をするが、表側の「糊置き」では赤く着色した糊を使う
赤い糊が置かれた状態。型と型との境目が分からないように「糊置き」を繰り返し、一反の13メートルを終えたら板を担いで外に出し天日で干す。表の糊が乾いたら裏返し、透けて見える赤色を頼りに模様が表裏ピタリと合うように「糊置き」を同じく一反13メートル分行う

「糊置き」の説明用に松原さんが作った反物。表は赤い糊、裏は黄色の糊が置かれていることが分かる

子どもの頃に見た仕事場。
工芸高校卒業の時の思い

 父親と叔父たちが働く工房は、小さな頃の松原さんの目にどう映っていたのでしょうか。「遊び場ではありましたけど、なんかピリピリした感じがあって恐かったですね。仕事場ですから厳しいやりとりもあるじゃないですか『馬鹿野郎』『この野郎』的な(笑)。子どもながら聞かされるのはきつかった。こういう厳しさの中ではやりたくないなと思いました。でもあの厳しさがあったから、親父たち兄弟はやっていけたのではとも思います」。
中学を卒業した松原さんは、東京都立工芸高等学校のデザイン科へ進学します。同校は2007年に創立100年を迎えた歴史ある工業高校。デザイン科のほかアートクラフト、マシンクラフト、インテリア、グラフィックアーツの5科があり、第一線で活躍する卒業生は多数。人間国宝も多く輩出している名門校です。しかし入学当初の松原さんは長板中形を継ぐつもりはなく、立体造形に興味を持っていたそうです。父親からも継いでほしいといわれたことは一度もなかったそうですが、高校3年の頃には「親父の仕事をやろうかな」と思い始めたそう。
「ただ、工房のあった江戸川の、あの環境ではやりたいとは思っていなかったですね」。中央環状線が荒川の土手沿いに開通したことによる煤煙の問題、また高層マンションが増え、天日干しに必要な日照時間が得づらくなるなど製作環境は厳しくなる一方。そんな時たまたま、今の場所を見学する機会があり、この環境ならと長板中形のワザは第三世代にバトンタッチされていきます。

板場の奥には大小いくつかの藍甕が活けられている。大きさや用途により使い分ける。染める日の2、3日前に攪拌して藍玉を落ち着かせ、上澄みに生地を浸す
藍が発酵している証の「藍の花」。気温などの環境により「藍の機嫌」は変わる。冬場はヒーターを入れたり、隣り合う甕に湯を張ったりして発酵を助ける

藍に染まった伸子(しんし)と呼ばれる道具。先端に付いた針で生地の左右の端を止め、屏風畳みにして藍甕に浸す。反物一反で約36本の伸子を使う。防染糊を置いていないところに藍は浸透するが、糊がきちんとついていないと防染したつもりのところも染まってしまう。ゆえに、気候、生地の素材、型紙の細かさなどをその都度総合的に判断した糊の調合、糊置きが肝心となる

父と息子、二人きりの工房。
亡くなった父から教わること

 父親と二人きりの工房での修業時代は、どんな様子だったのでしょうか。
「1、2年は思うようなものは作れないじゃないですか。糊はうまく作れないし、型はうまくつなげない。だから、自己嫌悪との戦い。生地に型紙を置くことは親父もさせてくれなかったんで、この板にいかに糊を平におけるかって練習をするだけ。母屋では普通の親子ですけど、仕事場では殆ど会話はなくラジオが流れるだけ。時々親父が『おい、そこは違うぞ』ってボソって言うくらい(笑)」。
20歳そこそこの青年にとって、不安はなかったのでしょうか。「やっぱり、すごく不安はありましたね。でも結局それが基礎なので。まぁ一番ショックだったのは、今から思えば当然なんですが、自己満足で今みたいにつないでくるじゃないですか、それでああ我ながらよしよしと思って、ちょっと母屋に用足しに行ったりすると、それがもう剥がされていてない。ええって思うと、工房の奥のところで水に浸けられている。ガーンときます。でもそこで親父に喰ってかかってもしょうがない。どこがダメって言わないので、そこを発見するまでが大変でした」。
それでも、父親について行ったのは尊敬の念でしょうか。「うーん、そうですね。二人でいると気づかないですが、父親のお供で展示会とか行くと肉親が客観的に見えてくる時があるじゃないですか。あれ、これって僕が見ていたものと違っていたのかなと気づかされちゃう。親父が亡くなって8年経ちますけど、亡くなってからの方が“ああそういうことだったのか”とか “そういう思いで作っていたのか”と気づかされることが結構ありますよ。僕のことをそんな風に見てくれていたのか、とか。『お父さんはあなたのこと結構期待していたよ』なんて聞かされると、えっ言われたことないしって(笑)。同じ仕事をしているから経験することでもあるでしょうね」。

防染糊は、糯米(もちごめ)から作る生糊(きのり)、米糠(こめぬか)から作る糠がき、そして石灰を調合して作る。染める生地、季節、型紙の細かさに合わせての調合は経験がものを言う世界。工程の胆となるため、松原さんも1、2年は糊をこの板に平らに置く練習を続けた
糊のついた伊勢型紙は「糊置き」の途中で、何度か水洗いをする
糊を落とした伊勢型紙の余分な水分を拭き取り、また「糊置き」を繰り返す

伊勢型紙。伊勢型紙は彫り師が彫る。地紙を7、8枚を重ねて同じ模様を作り、型紙の両面を使って糊を置く。一枚は表の「糊置き」用に、もう一枚は裏の「糊置き」用にするものもある

毎日が鍛錬。
だからこそ得られる醍醐味

 父親に入門して30年の月日が経ち、松原さんの作品も数々の賞を受賞しています。それでも、「型紙に負けている」とうまく型紙を扱えずに落ち込む日もあるのだそうです。「こういう仕事をやっている人は、みなさんそうだと思いますが、定年もないし一生やっていく仕事」。鍛錬、探求は生涯続くのが等しく職人の世界です。そんな毎日の中、自分のイメージした通りに仕上がった時の喜びはひとしお。「さらにそれを着てくれる方がいて、『周りに褒められました』なんてお礼のお手紙やメールをいただけると喜びは倍増しますね。昔は問屋が間に入っていたけど、今は個展とかで直接お客さまと会話できる。それは醍醐味ですよね」。

着物は着て外に出かけるので人の目に触れる。お客さまが着ている姿を見られるのも、着物姿を第三者に褒められたとお客様から聞くのも、制作者冥利に尽きると言うもの

次世代へこの価値を
どう伝えていくのか

 松原定吉翁、父と叔父たち、そして松原さんへと三世代に亘り継がれてきたワザ。今のところ、このワザを継ぐ次世代はいません。もし、弟子入りしたいという人が現れたらどうしますか、と伺ってみたところ「おっかないですね。いま興味を持つ人は増えているみたいで有り難いんですが、どうしても修行、鍛錬の期間がある。それから道具を作ってくれる人が激減するなど、今後の環境の変化が予測がつかない側面がある」との答え。松原さんは、自分の子どもに継いでくれと言ったこともないとのことです。「じゃあ絶えてよいのかというとそうではない。爺さんがやって親父がやってきたことだから。道具とか材料がなくなるまで、自分は続けていくつもりです」。
これまで編集部では、様々な分野の職人に取材してきましたが、伝統のワザが直面している後継者、道具や材料、消費者の価値観の変化といった問題は共通のものです。そしてそんな厳しい環境の中、急速なグローバル化を背景に日本文化への興味関心が内外で高まっているのも事実です。一夜にして状況が変わることはないでしょうが、毎日少しずつ、価値の理解者は増え、状況は良くなっていると信じたいと思います。

 工房取材の数週間後、嬉しいニュースが届きました。第61回を迎える「日本伝統工芸展」で松原さんの「長板中形着尺『漣文(さざなみもん)』が、今回の最高賞となる「高松宮記念賞」を受賞したとのこと。「日本伝統工芸展」は、公益社団法人日本工芸会が文化庁、NHK、朝日新聞社と主催する最大規模の公募展で、歴史上・芸術上価値の高い工芸技術を保護育成するために毎年開催されています。陶芸、染織、漆芸、金工、木竹工、人形、諸工芸の各分野からの公募作品が出品された中での、最高賞受賞はすばらしい出来事です。受賞作品は、2014年9月17日から29日までの期間、日本橋三越本店で展示されたあと、全国を巡回します。お近くの方は、ぜひ足をお運びください。多くの方に松原さんがつないできたワザの素晴らしさ、意思の素晴らしさを感じ取っていただきたいと願います。

出刃篦(でばべら)という長板中形独特の篦。自分の手に合うよう、やすりで研ぎ角度をつけて使う
白生地を長板に張る時に使う、シュロの刷毛。これを作る人も少なくなっている

身近に取り入れやすいバックやテーブルセンターなども制作している

【松原伸生さんの作品の展示販売を行います】
職人という生き方展vol.13
日時 : 2014年9月1日(月)〜2014年11月30日(日) 8 : 00〜20 : 00
場所 : パークホテル東京25F 掌tanagokoro

長板中形藍形染 藍形染作家