栃木県 益子焼

 益子焼の歴史

日用品から民芸品へ。
生活様式の変化に合わせ、発展

益子焼江戸時代末期の1853年に、茨城県笠間で修行した大塚啓三郎が窯を築いたことに始まる「益子焼」。創業当初から産業活性化策の一つとして黒羽藩の保護を受けましたが、1871年の廃藩置県により黒羽藩は解消。藩からの援助は途絶えたものの、創業から20年近く経過して窯数も増加。大きな消費地である東京を控える立地も大きく影響し、発展を遂げました。しかし、明治末期頃になると、生活様式の変化や生産過剰などによって売れ行きが悪化。創業以来の鉢・水がめ・土瓶などの日用の道具が、需要の変化から年々減り続ける中で、生産の中心は食卓用品や花を生ける器などの民芸品へと転換していきました。それらの手本には、大正13年(1924)から益子で作家活動を始め、益子在住の陶工達に多大な影響を与えた濱田庄司の民芸品の流れを汲んだ作品が用いられました。そのため、今日多くの人々が抱く「益子焼」のイメージの原点は、濱田庄司の作風となっています。

 益子焼の魅力

愛着の湧く温かみ。益子焼独自
の素朴さを生みだす釉薬や模様

益子焼艶となめらかな質感、そして肉厚でどっしりとした重量感を持つ「益子焼」。手のひらで包むと、土物特有の自然の温もりがじんわりと伝わってくるので、使うほどに愛着が湧きます。そんな益子焼を一層引き立てるのが釉薬(ゆうやく)です。透明釉を基本に、黄土色に仕上がる益子独特の柿赤釉、灰色に仕上がる灰釉、さらに飴釉、黒釉などが落ち着きのある渋い色合いを生みだします。また、益子焼独特の味わいを生みだす、藁(ワラ)灰、木灰、糠灰などを用いた白釉を使った品も味わい深い魅力を持っています。模様付けには、白泥をはけで塗りつけた「はけ目」や、釉薬を塗った上から櫛状の道具で引っ掻いた「櫛目」などがあり、どれもシンプルな中にも確かな個性が光ります。

 益子焼ができるまで

「菊もみ」をし、成形。素焼き
後、絵付け・釉掛けをし焼成

益子焼ができるまで採掘した陶土を乾燥させて粉砕。それを水槽に入れ、攪拌(かくはん)してゴミなどを取り除き、乾燥させます。その後、成形しやすくするために、荒もみと小もみを繰り返す「菊もみ」をし、数日間寝かせます。ろくろ、手ひねり、型抜きなどで成形し、一度天日に干して乾燥させ、適度な堅さになったら再びろくろに乗せて、形を整えるために削り作業を行い、さらに乾燥。素焼き、青色を出す呉須、黒から茶色の色味を出す鉄砂、銅等を使った絵付けなど、益子焼ならではの独特の味わいを出す釉掛けの工程を経て、1200~1300℃で二昼夜から三昼夜焼成します。焼成後、2日程冷ましてから窯出しをして完成です。

主な産地・拠点 栃木県
このワザの職業 陶芸家
ここでワザを発揮 食器、花器類
もっと知りたい 財団法人 益子参考館-MASHIKO SANKOKAN
益子陶芸美術館/陶芸メッセ・益子