求道者たち vol.15
落語家 2012/4/16

人のありさまを一人で表現する。
人としての成熟を待つ「落語家」

老舗蕎麦店での独演会は
終始なごやかな雰囲気で

三遊亭司(さんゆうてい・つかさ) プロフィール/東京都大田区出身。1998年7月、四代目・桂三木助に入門。前座名は「六久助(ろくすけ)」。2001年3月、三遊亭歌司に入門。前座名「麹(こうじ)」。2003年5月に二ツ目昇進。「司(つかさ)」と改名。

 出囃子が鳴り襖が開くと、会場から待ってましたとばかりに拍手が沸きます。ここは東京の老舗蕎麦店「藪伊豆総本店」の三階。いつもは宴会場として使われている二間続きの和室に設えた高座に上がったのは、もうじき真打ちの呼び声高い三遊亭司さんです。

 独演会である「日本橋つかさの会」は七回目。土曜日の三時という時間帯もあり、客席には幅広い年齢層の人たちが集まっています。なかには、初めて落語を聴くという人も。司さんが高座に収まり丁寧にお辞儀をして顔を上げると、高座がぱっと華やかになったように感じます。やわらかな物腰そのままに、本題の噺(はなし)に入る前の枕(まくら)もお客さまと対話するように進んでいきます。
この日の演目は「浮世床(うきよどこ)」と「崇徳院(すとくいん)」。司さんが得意としている男と女の恋模様、色恋の噺です。一席目と二席目の間には、事前に会場のお客さまに記入していただいたアンケートを読むコーナーも。落語を聴いた後は、お店でお蕎麦をいただきながら司さんを囲む懇親の場も設けられていて、落語家と観客の距離がとても近いあたたかな雰囲気の落語会になっています。
高座で拝見すると、どこから見ても落語家の司さんですが、子供の頃はどんな少年だったのでしょうか。落語との出会い、そしてどうして落語家になったのかうかがってみました。

「日本橋つかさの会」を開く老舗蕎麦店「藪伊豆総本店」。東京都中央区日本橋3-15-7 TEL : 03-3242-1240 http://www.yabuizu-souhonten.com/

談志の「富久」に動かされ
落語家になろうと決意

 「落語との出会いは、衝撃だった」と司さんは言います。それは司さんが中学1年生のある日のこと。「たまたま父が、深夜に放送された落語の番組を録画してくれていたのですが、それが立川談志師匠の落語で「富久(とみきゅう)」。それまでは漠然としたイメージしかもっていなかった落語でしたが、『落語ってすごいもんだ』と思ったのでしょうね。その日、職業としてこういう生き方があるのだと思いました」。

落語と衝撃的な出会いをしたという司さん。最初から職業として落語家というものを意識したそうです。

ちなみに「富久」は、こんなお話。
——–腕の良い幇間(ほうかん・たいこもち) 久蔵(きゅうぞう)は、酒癖の悪さで贔屓(ひいき)の客をみんな失ってしまいます。あるとき、有り金をはたき、当たれば千両の富籤(とみくじ・たからくじ)を買います。その夜、贔屓(ひいき)の客の一人である旦那(だんな)の家の方角で火事。真っ暗闇の中を走って、久蔵は火事見舞いに駆けつけます。その甲斐あって旦那に再び出入りを許されるのですが、久蔵は差し入れの酒に手をつけ酔っぱらってしまいます。———-

扇子を盃に見立ててお酒を飲む仕草。「富久」の久蔵もこうしてお酒を飲み過ぎてしまううちに、また騒動に巻きこまれます。

中学一年生が理解するには難しい設定や、今では無くなってしまった風俗を含む噺ですが、司さんは「大人の世界だから子供には分からない、というものでは決してありませんでした」と言います。「録画で見た談志師匠は当時57歳くらいだと思いますが、それくらいの大人が何か真剣に伝えようとしていたのが分かりました」。人情や人間の業(ごう)といったものを題材にする『人情噺』。そんな大きなテーマを手ぬぐいと扇子一本で伝えきる、落語家という職業の奥深さに中学一年生の少年は動かされました。司さんが観た録画は、おそらく1992年12月29日に放送された「年の瀬落語会」。この番組は後日、「落語のピン」という人気演芸番組となり1993年の4月から半年間、フジテレビの深夜枠での放送が続きます。司さんも「深夜の放送でしたが『すごい番組をやっている』と友達に話していました」と言います。
中学時代は寄席通いもよくしたそうです。こうして落語への気持ちは高まり、中学を卒業したら直ぐにでも落語家になりたいと考えるようになります。「今思えば自分に覚悟がなかったからですが、親に『高校くらい出てくれ』と言われて高校へ進学しました。親には、『高校へは行くけど後のことは口出ししないでくれ』と言って。私は有言実行でないと出来ないので、ある意味自分を追い込むためにそう言ったのですね。『口出さないで』と言っておいて大学へ行くのは嫌じゃないですか」。高校時代は「落語家になる」と決意を固めていたので、「落語から距離を置いた」と司さん。いよいよ高校卒業の日を迎え、入門という扉を叩くことになります。

四代目・桂三木助に弟子入り。
「桂六久助」として前座修業

 落語家になるためには、落語家のもとへ弟子入りするしかありません。どこかの会社に就職するのでもなく、国や地方自治体が就労を支援する制度を用意しているわけでもなく、落語家の「弟子入り」は師匠と弟子の一対一の関係で成り立っています。親子でもない他人に自分が積み上げてきた「芸」という財産を伝承するスタイルは、互いへの信頼がベースにないと成立しません。だからでしょうか、師匠と弟子は時に親子以上の結びつきとなるようです。司さんが師匠として選んだのは、四代目・桂三木助。名人と謳われた三代目・桂三木助のご子息で、当時はテレビ番組「大岡越前」にも出演するなど多彩に活躍していた落語家です。
「談志師匠の影響もあり先代・三木助師匠の落語を聴き始めるのですが、そこで今活躍している桂三木助は『四代目で息子なんだ』と知るわけです。後に私が二度目の弟子入りをする三遊亭歌司とも重なるのですが、『華やかだなぁ』というのが印象でした。お稽古しても『華やかさ』というのは身につくものではないかもしれませんが、側にいて修行したいと思いました」。

座布団の上に座り、手ぬぐいと扇子一本で物語を語る落語。落語家は一人何役もこなす俳優となり、監督となり、聴き手の想像力を引き出していきます。

憧れが強ければ強いほど、入門はプレッシャーになります。三月に高校を卒業するものの、師匠の家を訪ねるのは三ヶ月後の六月だったと司さんは笑います。
「今では考えられないことですが書店で売っている情報誌に、師匠の住所も電話番号も載っていました。一応、事務所名義だったので事務所だと思って行ったら普通の家(笑)。表札に『桂三木助』って書いてあるのに、でも『ここじゃないかも』なんて言い訳して師匠の家の周りをぐるぐる回っていました。10時頃行って、2時、3時までぶらぶらして、『今日は家が分かっただけで帰ろう』なんて(笑)。怖いじゃないですか。答えがでるから」。そして、翌日も師匠の家へ行きますが思い切れず、その日は手紙を書いてポストに入れて帰ります。「一週間後かな。今度は、近所から師匠の家へ電話をしました。そうしたら電話に師匠本人が出たのです。『手紙くれた子? 』『どこにいるの? 』と尋ねられ近所の公園にいることを告げると、『いいよ、今時間あるから』と呼んでくれました」。その日、師匠とはいろんな話しをしたと言います。「きついよ」「大変だよ」という話が大半でしたが、「親御さんを連れてきて。(弟子入りのことは)その時まで考えておくから」と言われたそうです。 「後日、母親と行くと師匠は『私も14~15年やっているけど生活は安定しない』とか数百人の芸人の名前がぎっしり書かれている落語協会演芸家総覧を見ながら『私もこんなにいるうちの一人でしかない。いかに売れるのが大変か。それでもいいのですか』というような話をされました」。そんな厳しい話のなか、師匠の母である先代・三木助師匠のおかみさんが「うちにいた扇橋も木久蔵も売れっ子。売れたらこんなにいい商売はないから」という言い方をしてくださったのが、記憶に残っていると司さんは言います。
「じゃあ7月13日からおいで」と入門を許され、前座名「桂六久助」としての落語家人生が始まります。

師匠との永遠の別れを経て
いま分かる「修行」の意味

 師匠が独身であったため修行は「住み込み」ではなく、「通い」でスタートします。「朝は9時半に師匠の家へ行き、料理や家事、身の回りのことをするのですが、しくじる(失敗する)度に『できないなら早くきてやれ』と行く時間が早くなって、最終的には8時になりました(笑)」。桂三木助は修行が厳しかったことでも有名です。「3年間の修行期間は、その意味が分からず、ふてくされたりしていました」と司さんは当時を振り返ります。ところが今、二ツ目の落語家としてお客さまの前に出るようになって、その意味に気づいたと言います。「たとえば師匠が二日酔いだったら、それを考えた献立を用意する。また熱いお茶を出すのか、黙って冷たいお茶を出すのがよいのかを考える。師匠の身の回りの世話、家事をするなかで身につけることは、実はお客さまが何を欲しているかを察するためのものなんですね」。

手ぬぐいと扇子はいくつか用意しておき、その日の噺の内容によって選んでいるそう。いちばん左の手ぬぐいは、四代目・桂三木助のもので、お守り替わりにいつも持ち歩いているそう。

入門して3年目のある日、当時桂六久助であった司さんは師匠に破門されます。「何やったのってよく聞かれるのですが、些細なことです。毎日『明日からこなくていい』って言われるのですが、翌日、師匠の家で待っているといつもの時間が始まる。きっと謝れば済んだのに、『破門だ』と言われた翌日から師匠の家に行かなかったんですね。当時は、こんだけやっているのに、師匠は私のことを嫌いなんじゃないか、とも考えるようになっていました」。
プツッと糸が切れるように、落語の世界を離れた司さん。その日から半年間、何もしなかったと言います。そして半年後の2001年1月。桂三木助、突然の訃報を前座仲間からの電話で知ります。
「話を聴いても、なんのことやら理解できない。衝撃的というよりほか、なかったです」。亡くなったその日に駆けつけ、師匠と無言の対面。葬儀を手伝い、弔辞を読む。永遠の別れは突然やってきました。もし桂三木助が生きていたら、戻ってくるつもりはなかったという司さんでしたが、思いもよらない時間を過ごすなかで、おかみさんにもう一度この世界へ戻ってくることを勧められます。そして、その年の3月三遊亭歌司のもとへ入門。前座名「麹(こうじ)」を経て2003年5月に二ツ目昇進。三遊亭司と改名します。

司さんの持ちネタは150ほど。独演会ごとにネタ帳をつくり、以前かけた噺が重複しないようにします。

二ツ目となって考える
落語とは何か、落語家とは何か

 二ツ目になると、ほとんどの落語家さんは定期的に独演会を開くようになります。司さんも「日本橋つかさの会」と「蒲田系実演集会」という独演会をもち、お客さまの層に合わせた噺でそれぞれの会の特色を出しています。司さんと言えば、色恋の噺や若旦那が登場する噺がしっくりきますが、ご本人は今後どんな噺を演っていきたいのでしょうか。
「笑いが多いものよりもストーリー性のあるもの、背景にいろいろある噺に今のところ魅力を感じるし、演りたいと思っています。それから今後は今までやってきたことを振り返ってもう一回なぞるようなこと、確認を丁寧にやってみたいですね。とはいえ、今までと特に違ったことをしようというわけではなく、平日の昼間に落語を聴くような人を対象に、普通の落語、過激でもなく誰々の何々でもない落語をやってみたい。攻めていったり、自分なりの解釈を入れる方が、ある意味楽かも知れない。極端なことをやるほうが『司は工夫しているね』と言われますから。でも本当に工夫なのかなと。そんな風に考え始めたんです」。

出番を前に、楽屋で身支度を調える司さん。

ゆくゆくは自分が考えた装飾品を綺麗に外して終わりたい、とも。そういう司さんの落語観は、次の「記憶に残る高座はありますか」という問いの答えにも現れていました。
「落語ってこうでいいのかな、と思ったのは、数年前に都民寄席 (落語協会や落語芸術協会が落語を普及させるために請け負う活動で定期的に行っているもの)で小笠原の父島に行ったときのこと。『時そば』を演ったのですが、お客さまから『何十年か前に聴いたけど、蕎麦食べる噺だったよ』って。落語があって、落語家なんだと。三遊亭司が落語をやったよ、ではなくて、蕎麦を食べる話だったよ、という印象なんだなと。偉大なのは『噺』。昔から語り継がれてきた『噺』を次の世代に渡していくのが落語家の役目。『噺』がバトンだとしたら、それを持って走るのが落語家。アスリートとしての自信ではなくって、バトンを絶やさないようにしているだけ。落語の可能性を追っているだけで、そこに価値を見いだしているからやっている。司の落語、とか言うけれど、そんなものだろうと」。

「日本橋つかさの会」など今後の独演会スケジュールは、ブログ「つかさの歳時記(http://ameblo.jp/sannyuutei-tsukasa/)」でご確認ください。

いずれは弟子を育てて
師匠、落語に恩返ししたい

 偉大なのは『噺』で、それを次の世代にバトンタッチするのが落語家の役目という司さん。将来の理想像を尋ねると「弟子がくる落語家になりたい」と。「それこそバトンを託す人がいるってことはいいし、お客さんが1万人いようが、弟子が一人くるというのは大変なこと。私は弟子になったけど、私は弟子を取りません、というのは虫のいい話ですよね。弟子を取ることは恩返し。落語に対しても、私を育ててくれた師匠に対しても」。

弟子が来る落語家になりたい、と語る司さん。弟子を取ることは落語に対しても、師匠に対しても恩返しだと言います。

子どもに落語を教えるというお仕事もあるそうですが、司さんは子どもに落語を指導するときには、その子に合わせて言い方、教え方を変えているそうです。3月のある日、「大田文化の森運営協議会」が開催する素人落語会に出演する子どもに司さんが落語を指導するというので、その場面に立ち会わせていただきました。
この日指導したのは中学生と、小学4年生の子どもたち。ほとんどの子どもが図書館にある子ども向けに書かれた落語の本から、演りたい噺を見つけてきますが、そのままだとト書きの部分が多く、「会話」で活き活きとつなぐ落語の持ち味が生かされません。司さんは、子どもが用意した噺をできるだけ台詞で完結するよう、丁寧に筆を入れて直していきます。「犬の目」という噺を5分に短縮した現代版をやるという中学生には、実際に通しで演じさせた後で、扇子を使った仕草を「この方が自然じゃない?」となおしてあげます。小さなお弟子さんたちも、真剣な面持ちで指導を受けていました。

小さなお弟子さんたちを相手に丁寧に落語の指導をする司さん。この子どもたちの中から未来の落語家が生まれるのでしょうか。

「想像だけで言えば、私もいずれは人を育てたいと思うけれども、本当に育つのかを見極めたり、また本当に育てられるのかと考えたり、覚悟のいることですね。師匠も覚悟を決めて取ってくれたのでしょうね」と司さん。「師弟関係は不思議なもの」とも。「いつまでたっても師匠である三遊亭歌司に誉められたい、と思います。30歳過ぎの男が60歳過ぎの人と会ってご飯食べたり飲んだりするのが嬉しいっておかしいかもしれませんが、何よりも嬉しいことなのです」と。桂三木助の月命日には、今でも墓参を続けているそうです。
「私たちの修行形態が面白いのは、いつか鈴本演芸場に出たい、とかではなく、トリが誰であろうと前座にも15分、一席の時間が平等に与えられているというところです。同じ舞台で演れるというのは、本当に有り難い修行だと思います」。また桂三木助には、「厳しく仕込んでくれたおかげで、最低限のことは、できていることに感謝しています」とも。
落語への感謝、落語を教えてくれた師匠への感謝。落語家という職業は、『噺』の中の登場人物たち、ご隠居さん、八っつあん、熊さんのような密な関係性のなかで温かくも厳しく、成り立っているようです。落語家の高みは60歳くらいにあるとも言われますが、酸いも甘いもかみ分け、人というものをよくよく見てこなければ、さまざまな登場人物やストーリーを表現できないからなのかもしれません。
一生修行。人としての成熟の時を待つ。そんな職業が落語家なのかもしれないと感じた取材でした。

日本橋つかさの会

第九回 2012年5月12日(土)/「宿屋の仇討ち」ほか
第十回 2012年6月9日(土)/「蛙茶番」ほか
第十一回 2012年7月14日(土)/「船徳」ほか
第十二回 2012年8月11日(土)/「お化け長屋」ほか
第十三回 2012年9月8日(土)/「子別れ」通し
※以降の開催日程は藪伊豆総本店の公式ホームページ (http://www.yabuizu-souhonten.com/)でご確認ください。

時間/14:30開場15:00開演(17:00終演予定)
場所/薮伊豆総本店(東京メトロ「日本橋」駅徒歩5分)
木戸銭/予約2000円・当日2200円
終演後おつまみとせいろそばセット(1500円)で懇親会もあります
予約・お問合せ/takenokorecipe@yahoo.co.jp
※ ご予約の際には、お名前・人数・ご連絡先・お食事ご希望の有無をお知らせください。
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蒲田系実演集会

5月21日(月)/「大工調べ」「大山詣り」(ネタおろし)
※以降の開催日程はブログ「つかさの歳時記(http://ameblo.jp/sannyuutei-tsukasa/)」でご確認ください。

時間/18:30開場19:00開演
場所/大田区民ホール・アプリコ 小ホール(東京都大田区蒲田5-37-3、JR「蒲田」駅東口徒歩3分)
木戸銭/予約1300円・当日1500円
予約・お問合せ/officedrop.tsukasa@gmail.com
※ ご予約の際には、お名前・人数・ご連絡先をお知らせください。
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三遊亭司さんの今後の出演情報は、社団法人落語協会のホームページでもご覧いただけます。http://www.rakugo-kyokai.or.jp/
「社団法人落語協会TOP」→「芸人紹介」→「二ツ目 三遊亭司」
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